死の意味は、やっぱり自分の死の意味。
昨日は、
ベトナム人の友達の家に遊びに行きました。
友達の家はサイゴンから車で2時間くらいのところにあり、
未来には飛行場がそこにできるそうです。
今回で二回目ですが、
すごく良い家と家族で、
赤の他人の僕が旧正月に遊びに行っても
快くおもてなしてくれます。
ちょっと忙しいと
つい書かないでしまっているんですが、
なんでこのブログを書くのか、
と最近再確認していました。
理由は簡単です。
わたしはわたしのために書いております。
そこに綺麗事も、いいわけもなく、
ただ書きたいから書くのです。
ちょっと前のぼくでしたら、
愛してほしいを全面に出しすぎていたので、
そんなことも言えなかったのでしょう。
でも今は違います。
僕は僕のために生きます。
誰のためでもありません。
好きなことをやって、死んでいきます。
それがわがままだとか、
独りよがりだとか、
そう言われてももはやなんとも思わないのです。
僕は痛いほど解ってます。
本気で自分のために生きないと、
誰のためにもならない死に方をするんだ
ということをです。
わたしはわたしをわたすのです。
友達の家には
ものすごくでかい仏壇があり、
死者を丁寧に想っていることが
わかります。
佐野洋子さんの言葉で
「死の意味は、自分が死ぬことではなく、他人の死のことなのである。」
というような言葉があります。
僕は結婚生活終盤、
死ぬことをあまり恐れなくなってしまっていました。
それはなぜか考えたら、
大好きな人、自分が理由になり産まれた息子、
それなりのわがままな生活が横にあってくれたので、
もうどうでもよくなったからだと思います。
幸せは、時に人をダメにしますが、
それは幸せのせいではありません。
僕は目の前の現実がすべて自分のものだと
勘違いしていたからなのです。
なので、恐怖を感じなくなったのではなく
死も。生だって。
そこにありませんでした。
今は、死ぬのがこわいみたいです。
このまま死にたくないみたいです。
ゴキブリを叩くと必死になって逃げる、
それは生きたいからだとして、
正常なんだと思います。
僕はやっと正常になれました。
死の意味は、やっぱり、
他人の死の意味だけじゃないんです。
僕はそう思います。
しんご
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